武家屋敷が残る街にて湧水のせせらぎを聴く
島原半島は日本で初の国立公園に指定された所です。有明海の諫早湾潮受堤防を通りながら島原市内へ向います。島原は日本湧水百選の中の一つであり、水がおいしくきれいです。それから島原ソーメン(小豆島の流れを組む)寒ざらし、具雑煮という名物も有ります。歴史上、有名な天草四郎率いる島原の乱や平成3年の世界を驚かした普賢岳の大爆発も有りました(黙祷)その場所を私が許される範囲内でご案内致します。
コースをご利用のお客様
島鉄愛野駅
メルヘンチックなかわいらしい駅
島原半島の付け根部分に位置する雲仙市愛野町にある島原鉄道の愛野駅はメルヘンチックなかわいらしい駅である。駅舎には「ロマンの街」「愛しの吾妻(わがつま)」と書いてある。これは愛野駅と隣り町の吾妻(あづま)駅の名前を結びつけたもので、愛野-吾妻の乗車券は新婚旅行客や愛妻家、日頃の罪滅ぼしの御仁に人気があるという。
土石流被災家屋保存公園
雲仙普賢岳噴火による土石流で被災した11棟の被災家屋を保存展示しています
この公園は土石流災害で被害に遭った家屋を後世に伝える為、保存・公開している施設です。当時、被害に遭った被災家屋11棟を当時の状況のまま保存(1棟は移築)しています。この公園周辺は約2.8~3mほど土砂物で埋没しましたが、土砂物の流れてくるスピードが緩やかだった為、倒壊はせず土砂物に埋もれました。
鍋島屋敷
歴史を物語る長屋門
高校サッカーでおなじみの国見町にある神代氏の居城で有明海沿岸に築かれ周囲には海に囲まれた難攻不落の海城で神代城 別名 鶴亀城とも呼ばれました。1587年(天正15年)豊臣秀吉の島津征討に功をたてた鍋島直茂が論功行賞として、この神代を飛び地として秀吉より賜わり支配しました。歴史を物語る長屋門、石塀、庭園、枯山水、屋敷(江戸、明治、大正)更に丘の上の本丸跡から眺める景色は雲仙連山や有明海が見渡せる絶景の場所です。
島原駅
開業当時の「明治の精神」
雲仙天草国立公園や島原半島県立公園の自然美に囲まれた島原駅の駅舎は島原城を表し、駅の漢字が「驛」と旧漢字で記され、事務所には明治天皇・皇后両陛下の御写真と日の丸の旗、それに神棚が有り開業当時の「明治の精神」を受け継いでおります。島原駅構内の中央部に「島原の子守唄」の銅像や溝には錦鯉が泳いでおり水の都島原、歴史の町島原を物語っております。
島原城
天草四郎率いる島原の乱
1616年(元和2年)奈良五条から松倉重政が、島原四万石の城主として入封し、島原半島内にあった原城など33の砦を解体し、その資材を島原村森缶に運ばせ、7年の歳月をかけて、安土桃山式の枠をつくした天下の名城・白亜の島原城が完成しました。しかし城内一周4360m 10万石の構えである為、農民の苦役負担は重く、キリシタンの残虐極まる弾圧が加わり、住民(浪人軍)の怒りがとうとう爆発して、天草四郎率いる島原の乱が始まったのです。島原藩最後の城主、第12代忠和(養子)は徳川15代将軍慶喜の異腹の弟です。
武家屋敷
足軽屋敷と呼ばれ
島原市は松平七万石の城下町です。七丁の通りに70石とりの下級武士の住居690戸が有り、鉄砲町、又は足軽屋敷と呼ばれ、家の造りや垣も塀も無い町並みはキリシタンを取り締まる様に造られております。藁ぶきの屋根、大黒柱を中心とした開閉自由の広間、それから当時の生活用品が多数陳列してあり、昔の生活振りを懐かしく思い出す事が出来ます。
白土湖(しらちこ)
長崎県内で唯一の湖
島原市内の閑静な所に、こじんまりとした小さな湖があります。東西1km、南北200m、深さ3mで長崎県内で唯一の湖です。1792年(寛政4年)4月1日夕刻の雲仙岳の大噴火に伴う陥落により出現した日本で一番小さな、そして一日にして出来上がった陥落湖です。この白土湖は元々、島原藩主の菩提寺である江東寺のお墓の部分であり、湖底には墓石が散乱しております。毎秒一万トンもの水が噴き出し飲料にしますと、30万人分にもあたります。
島原湧水館
湧水が湧き出す庭園
島原市の「鯉が泳ぐまち」から路地に入ったところにひっそりと佇む島原湧水館。昭和初期に建築された木造瓦葺平屋、宅地133.8坪、床面積51坪の立派な木造建築。三村家から平成8年に島原市が譲り受けたものです。平成15年から17年にかけて島原市が当時のままの姿に整備し、島原の湧水めぐりなどを楽しむ際に利用してもらおうと「湧水館」と命名し、湧水資料館として公開しています。
鯉の泳ぐ街
“山崩えのこのかたを湧く清水かな”田士英
島原市内には幾筋もの小さな川があり、約3000匹もの錦鯉が泳いでおります、この川は日本湧水百選の中の一つでもあり水の都、島原ならではの床の下を泳ぐ鯉の町です。鯉の洗いが食べたいからと言って捕まえて食べる人は、まずいません。町内会や子供たちの世話により安心して育てられており、島原の人々の温かい豊かな人情味を表す一面を示しております。
水無川
平常は流水はありません
島原と深江町の境界をなす河川で平常は流水はありません。1792年(寛政4年)4月1日の眉山の大爆発により、水の流れが一変し全くの水が舞い川となりました。源流は赤松谷・おしが谷に始まり、枯れ木の海岸で有明海に注ぎ、約8キロの流路を持ちます。傍らに、普賢岳土石流の時に流れてきた大きな岩が島原復興記念石として設置してあります。
諫早湾潮受堤防
諌早の干拓は、約350年前から行われてきました
1952年(昭和27年)時の長崎県知事の発案で始まり45年後の1997年4月14日に潮受堤防の水門が閉じられました(世に言うギロチン)。2007年12月22日午後5時潮受堤防の上に全長8.5kmの諫早湾干拓堤防道路が開通しました。この道路を走りながら説明ご案内致します。