6時間コース

「楽しかったね」と二人で思い出せる、そんな旅を

「楽しかったね」と二人で思い出せる、そんな旅を

このコースでは長崎市内の主要観光名所の全てをご案内致します。昼食時間にかかりますが、御希望の美味しいお店を御紹介致しますので会話と共にお楽しみください。(食事時間はサービスです) 約一日の貸切り。長崎の歴史・文化・風俗などが十分堪能出来るコースです。ゆったりと記憶に残る旅を楽しみませんか。ご夫婦の記念日やご両親への贈り物などにもオススメです。

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コースをご利用のお客様

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【兵庫県S様 6時間コース】

【北海道T様 6時間コース】

【大阪府T様 6時間コース】

大浦天主堂

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日本最古の木造教会

元治元年(1865年)フランス人神父フューレ、プチジャンの両神父の努力により在日、フランス人のための教会として献堂式が挙行されました。本来、この大浦天主堂は日本で二番目に建造されたものですが、日本初の横浜天主堂が、大正12年9月1日の関東大震災で消失したため、日本最古の天主堂となった次第です。浦上潜伏キリシタンが、プチジャン神父に名乗り出て、約250年ぶりに日本カトリックの復活が実現したのもこの大浦天主堂での出来事でした。正面に設置してあるマリア像は、信徒発見の記念であり、慶応元年3月17日と記してあります。

グラバー園

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居留地時代の風情

四季を通じ様々な花が咲き誇る緑に包まれたグラバー園は、眼下に広がる長崎港の大パノラマを見下ろす絶景地、南山手の丘に立地している。昭和32年(1957)、三菱重工業株式会社長崎造船所より旧グラバー住宅及び庭園の寄贈を受け一般公開した後、外国人居留地であったこの地に元々あった国指定重要文化財の旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅を核に、市内に点在していた6つの明治期の洋館を移築復元。昭和49年(1974)に、「グラバー園」として開園した。

オランダ坂

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異国情緒漂う居留地跡の坂

東山手の丘に建つミッションスクール、海星高校体育館の登り口に「英国聖公会会堂跡」の記念碑が石垣に埋め込まれている。ここは文久2年(1862)、日本初のプロテスタントの会堂・英国聖公会会堂が建設された場所。出島に住むオランダ人の影響か、開国し、オランダ人以外の外国人が長崎の町に移住した居留地時代を迎えても、長崎の人々は西洋人を「オランダさん」と呼んでいた。

孔子廟

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中国歴史博物館

明治26年(1893)建立。中国人が海外で建造した唯一の孔子廟。中国政府、山東省曲阜(きょくふ)孔子廟の助力を受けた昭和57年(1982)の改築によって、中国華南と華北の建築様式が合体したユニークな廟宇が誕生した。

出島商館跡

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鎖国時代唯一世界に開かれた

出島は、寛永13年(1636)、ポルトガル人によるキリスト教布教を禁止するために徳川幕府が築いた扇形の人工の島。しかし、寛永18年(1641)には幕府の命令で平戸に置かれていた和蘭商館が出島に移転。その後、218年もの間“鎖国期における世界に開かれた唯一の窓”としての役割を果たした。

思案橋

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往来者が行こか戻ろか思案した橋

路面電車の思案橋電停、道路をはさんだ両側に橋の欄干を模した思案橋跡の碑が建てられている。この付近にはかつて川が流れ、花街時代、遊廓へ“行こか戻ろか”と思案したので名付けられたという思案橋が架かっていた。

崇福寺

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西日本随一の文化財を誇る唐寺

長崎には国宝が三つ有り、この崇福寺にはその内の二つ(太雄宝殿・第一峰門)が有り、もう一つが大浦天主堂です。崇福寺は寛永6年(1629年)長崎在留の福建省福州府地方の人達が寺建立の公許を得て、唐僧逸然を開基として出来た禅寺です。もともと、航海安全を守る媽祖様(女神)を祀るためにつくられたお寺です。

風頭公園 長崎を見渡す坂本龍馬像

風頭公園 長崎を見渡す坂本龍馬像

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風頭公園(坂本龍馬像)

園内には全国の有志からの募金によって建立された坂本龍馬之像や、地域の歴史を生かしたまちづくりに取り組む「亀山社中ば活かす会」の皆さんが、作家・司馬遼太郎の長崎における足跡の確認と文学顕彰を目的に建立した『竜馬がゆく』文学碑もあり、素晴らしい風景と共に龍馬の世界に触れることができる。

亀山社中跡

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坂本龍馬が設立した貿易商社

亀山社中とは慶応元年(1865)、薩摩藩などの援助によって土佐の浪人・坂本龍馬が設立した貿易商社。長崎・伊良林の亀山という場所に同志と組織した日本初の商社のことだ。顔ぶれは長岡健吉、近藤長次郎、陸奥陽之助、沢村惣之丞など龍馬と共に幕末の激動期を生きた志士達。

鳴滝塾(シーボルト記念館)

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医学のために貢献

鳴滝川が流れる閑静な住宅地に突如現われる洋館。ここはシーボルトの愛用品や功績を今に伝える記念館。建物はオランダにある彼の旧宅、玄関は祖父カール・カスパル宅を復元したものだ。シーボルトが門弟達に医学を教え、自らは日本研究に没頭した鳴滝塾跡(シーボルト宅跡)に隣接している。

興福寺

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日本最古の黄檗禅宗の唐寺

日本初の黄檗宗の唐寺である興福寺は、中国・明の商人が長崎と行き来をはじめた頃に渡来した中国人が元和6年(1620)、航海安全を祈願してこの地に小庵を建てたことが起源となっている。そして、当時は幕府のキリスト教禁令が激しく長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、興福寺を筆頭に仏教徒であることを証明するために次々に唐寺が建てられていった。

眼鏡橋

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日本最古のアーチ式石橋

17世紀に興福寺の住職を務めた黙子如定によって架けられた日本最古のアーチ式石橋。石橋と水中に映る石橋が合わさって眼鏡のように見えることから眼鏡橋と呼ばれるようになった。

鎮西大社 諏訪神社

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「長崎くんち」の大舞台

長崎市民から“お諏訪さん”と親しまれる長崎鎮守の神社は、秋の神事「長崎くんち」の大舞台だ。弘治の頃(1555~57)、信濃の諏訪社から御霊分けされ、当初現在の寺町にある長照寺付近に祀ってあったといわれている(その名残としてこの辺りは現在も諏訪町という)。

日本二十六聖人殉教地

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キリシタンが処刑された場所

豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘。キリストが十字架に架けられたゴルタゴの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれている。26聖人の殉教以降も多くの人々が“火あぶり”“水責め”“穴吊り”といったむごい手段でもってこの地で処刑された。

片足鳥居

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原爆の脅威を伝える鳥居

山王神社の参道には、一本柱鳥居と呼ばれ親しまれている鳥居がある。もともとは4つあった鳥居のうちこの鳥居だけは片方の柱を残し今も同じ場所に立っているのだ。左片方の柱の残骸は、一本柱鳥居の奥に置かれ見ることができる。また、境内には被爆したクスの木が残っている。

原爆資料館

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地球上の平和の為に

昭和20年(1945)8月9日午前11時2分。広島原爆投下から3日後、長崎市内の浦上地域に原子爆弾が投下され約15万人の人々が命を落とした。この資料館では被爆の惨状をはじめ原爆が投下されるに至った経過、被爆から現在までの長崎の復興の様子、核兵器開発の歴史、そして核兵器のない平和希求までがストーリーを持たせわかりやすく展示されている。

爆心地(原爆公園)

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二番目の原子爆弾が

昭和20年(1945)8月9日11時2分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂。現在、その地には落下中心地標柱として昭和43年(1968)に建立された黒御影石の碑が立てられている。園内には被爆当時の地層が残されているが、そこには原爆によって壊された家の瓦やレンガ、約3000度の熱で焼けたガラスなどが今も大量に埋没している。

平和公園

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平和を願う祈りの空間

原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園。ここには長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートルの平和祈念像が立つ。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めた。

如己堂

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永井隆博士の精神を宿す記念館

医学博士であり敬虔なカトリック信徒だった永井隆博士は、長年取り組んでいた放射線の障害を受け、被爆前にすでに白血病を患い余命3年の宣告を受けていた。原爆によって愛妻を亡くし、自分もまた被爆による白血病と戦いながら死の直前まで原子病の研究と発表を続けた博士。寝たきりとなってからは如己堂(にょこどう)と名付けた2畳一間の部屋に子ども達と住みそこで原爆、人間、愛、平和に関する多数の著書を執筆。

浦上天主堂

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平和を祈るかの様に

浦上天主堂の建設計画は、明治6年(1873)、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上の信徒達によって行なわれた。しかし、なかなか資金が集まらず20年余りの時を経た明治28年(1895)、やっとフレノ神父の設計による教会の建設が開始する。そして大正3年(1914)、東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式があげられた。