大切な人との思い出づくりをお手伝い致します

家族のために、自分を省みず一生懸命生きてきて迎えた人生の節目。楽しい・嬉しい・面白いと思う気持ちを家族、友人などあなたの愛する人たちと分かち合いませんか。人生を共に過ごせたことに感謝しながら余生を楽しみましょう。

コースをご利用のお客様

【茨城県W様 思い出づくり観光コース】
【新潟県G様 思い出づくり観光コース】
【静岡県U様 思い出づくり観光コース】

こんな名所を観光案内するコースです!

ファミリー人気ベスト3
異国情緒漂う居留地跡の坂

長崎の居留地にある坂道は、どこもみなオランダ坂と呼ばれております。昔より長崎は、出島貿易の関係上、オランダ人との付き合いが長く、オランダ人のイメージがものすごく強かったのです。開国の後、イギリス・フランス・アメリカ・ロシア・プロシアなどと世界各国から外人さんが来る様になり、外見を見た時“紅毛碧眼”であるため、誰がどこの国の人か区別出来なかったそうです。その時、長崎の人は面倒くさくなり外人さんを見たら「あん人達やあ、オランダさんに間違いなかばい」と言い、外人さんが通る坂道をオランダ坂と呼ぶようになりました。

大浦天主堂
日本最古の木造教会

元治元年(1865年)フランス人神父フューレ、プチジャンの両神父の努力により在日、フランス人のための教会として献堂式が挙行されました。本来、この大浦天主堂は日本で二番目に建造されたものですが、日本初の横浜天主堂が、大正12年9月1日の関東大震災で消失したため、日本最古の天主堂となった次第です。浦上潜伏キリシタンが、プチジャン神父に名乗り出て、約250年ぶりに日本カトリックの復活が実現したのもこの大浦天主堂での出来事でした。正面に設置してあるマリア像は、信徒発見の記念であり、慶応元年3月17日と記してあります。

グラバー園
居留地時代の風情

長崎の数ある名所の中でも、是非行っていただきたいお勧めは長崎市内が見渡せる絶景な丘にある、トーマス・グラバーさんが住んでいたグラバー邸です。イギリスの貿易商人であり、人を殺す道具(鉄砲など)を運んで来たため「死の商人」とか「禿鷹の様な商人」などと呼ばれましたが、その後の日本のためにはなくてはならぬ偉大な人だったのです。三菱造船所、高島炭鉱、私設電話、キリンビール、トロール漁業、日本青年(伊藤博文など)の英国留学援助など全て日本初の事柄で、このグラバーさんが教えてくれたのです。グラバー園には、グラバー邸をはじめとして、ゆっくり歩いて一時間かかるほど、いろいろな建物や植物が咲き誇る庭園があります。勿論、グラバーさんと親交があった坂本竜馬コーナーもありますよ。

孔子廟
中国歴史博物館

孔子廟は明治26年長崎華僑の募金と清国政府の後援で創設され、世界四聖人の一人孔子を祀っております。日本には5ヶ所孔子廟がありますが、その中でも長崎の孔子廟だけが中国の人により造られたものです。しかし原爆により破損し、1967年、1983年と資材や石像を、香港・台湾・中国から購入して改装したのが現在の孔子廟です。中に入ると、中国風な雰囲気があります。

チャイナタウン
長崎中華を食べるならここ!

日本三大中華街のひとつ。約250メートルの十字路で、東西南北全ての入り口に中華門が構えています。冬のランタンフェスティバルでは赤色のランタン(中国提灯)が通りを彩り、異国情緒ただよう幻想的な世界に街を彩ります。長崎の2大麺料理、ちゃんぽん・皿うどん。明治時代から愛され続けてきた、独特の麺、たっぷりの新鮮野菜と魚介の風味が堪能できる一品は、ぜひ一度は味わっていただきたい、長崎自慢の味です。

出島
鎖国時代唯一世界に開かれた

長崎の出島は、キリスト教の布教を阻止する為に、徳川幕府の命令により扇形に造成された人工島で日本唯一「世界に開かれた窓口」だったのです。この島に上陸した外人さんは、許可無く二度と島外に出られなかったので「海の牢屋」とか「体裁の良い牢屋」と呼んでいたそうです。出島に来る外人さんは、単身赴任が原則であり外人さんと日本遊女のロマンスが残っております。一番有名な話が「シーボルトと日本人妻お滝さん」です。他に「遠山の金さんのお父さん」や「清水次郎長」のエピソードも紹介します。

思案橋
往来者が行こか戻ろか思案した橋

その昔、長崎の地に丸山という名の遊郭が有り、そこに遊びに行くには相当なお金が必要であった。そこで橋の所で行こうか戻ろうかと思案したそうである。それが思案橋の名の始まりである。坂本龍馬、他、海援隊のメンバーも訪れている。

崇福寺
西日本随一の文化財を誇る唐寺

長崎には国宝が三つ有り、この崇福寺にはその内の二つ(太雄宝殿・第一峰門)が有り、もう一つが大浦天主堂です。崇福寺は寛永6年(1629年)長崎在留の福建省福州府地方の人達が寺建立の公許を得て、唐僧逸然を開基として出来た禅寺です。もともと、航海安全を守る媽祖様(女神)を祀るためにつくられたお寺です。

風頭公園 長崎を見渡す坂本龍馬像
風頭公園(坂本龍馬像)

園内には全国の有志からの募金によって建立された坂本龍馬之像や、地域の歴史を生かしたまちづくりに取り組む「亀山社中ば活かす会」の皆さんが、作家・司馬遼太郎の長崎における足跡の確認と文学顕彰を目的に建立した『竜馬がゆく』文学碑もあり、素晴らしい風景と共に龍馬の世界に触れることができる。

眼鏡橋
日本最古のアーチ式石橋

17世紀に興福寺の住職を務めた黙子如定によって架けられた日本最古のアーチ式石橋。石橋と水中に映る石橋が合わさって眼鏡のように見えることから眼鏡橋と呼ばれるようになった。

鎮西大社 諏訪神社
「長崎くんち」の大舞台

長崎市民から“お諏訪さん”と親しまれる長崎鎮守の神社は、秋の神事「長崎くんち」の大舞台だ。弘治の頃(1555~57)、信濃の諏訪社から御霊分けされ、当初現在の寺町にある長照寺付近に祀ってあったといわれている(その名残としてこの辺りは現在も諏訪町という)。

日本二十六聖人殉教地
キリシタンが処刑された場所

豊臣秀吉の命により、1957年2月5日水曜日、日本で最初に26名のキリシタンが処刑された場所です。京都から長崎までの850kmを29日間歩いて連行され、この丘で磔の刑により処刑されたのです。最年少が12歳のルドビコ茨木で、この子供が残した最後の言葉が「つかの間の命より、永遠の命を選びます。お武家様もキリシタンにおなりなさい。共にパライソ(天国)に参りましょう」と言い笑顔で殉教したそうです。南山手にある国宝大浦天主堂は、この二十六聖人への祈りを捧げるために建てられた天主堂で、今でも多くの人達が国内、外から訪れられています。

片足鳥居
原爆の脅威を伝える鳥居

山王神社の第二の鳥居で、原爆にあい真二つに折れたものです。階段を上がると、左側半分がそのまま残骸として残っており、爆風の強烈さというものが実感でき、原爆の脅威を物語る遺構として重要な役割を果たしております。

原爆資料館
地球上の平和の為に

この資料館には、第二次世界大戦にまつわる歴史的な真実の被爆写真集や遺品等が展示してあります。猛烈な爆風、強烈な熱線、そして恐ろしい後遺症を残す放射線(黒い雨)。生身の人間が耐えられるはずがありません。今でも被爆にあわれた人々が、闘病生活をされており、一生懸命地球上の平和の為に活動されております。この様な悲惨な戦争を二度と繰り返してはなりません。

爆心地(原爆公園)
二番目の原子爆弾が

昭和20年8月9日午前11時2分長崎市松山町171番地のテニスコート上空490mの所で、人類史上広島に続いて二番目の原子爆弾が炸裂し即死者73,884人、負傷者74,909人で、当時の長崎の人口が約24万人であり3分の1の人が亡くなり、想像を絶する地獄と化してしまいました。この原爆公園には、原爆落下中心之標と原爆殉難者名奉安箱が設置してあります。被爆後の今でも大勢の被爆者が亡くなられておりその奉安箱には昨年の8月9日の原爆記念日の日までに亡くなられた方々の総数が記されております。

平和公園
平和を願う祈りの空間

平和公園の場所は、元、浦上刑務所であり、監守や服役の人達134名がおられましたが、原爆により全員亡くなられました。その後、公園内に島原の彫刻家北村西望先生が、国内、外からの浄財をもとに平和記念像を建設しました。毎年、8月9日の原爆記念日には、世界各国から人々が集まり、平和記念式典が行われています。それは、原爆犠牲者慰霊と世界恒久平和を祈願するためです。そして、私も全ての人達が平和で幸せに暮らす事が出来ますように案内人(語り部)の一人として努力してまいります。

如己堂
永井隆博士の精神を宿す記念館

この場所は、元、浦上地区の帳方(キリシタンのリーダーの事)の屋敷後で秘密教会でもありました。「長崎の鐘」で有名な島根県出身の永井隆先生はここで帳方の子孫みどりさんと知り合い結婚しました。8月9日の原爆により、みどりさんはここで亡くなり、同じ場所に「如己堂」と呼んだ新居が建ち、先生と二人の子供さん(誠一兄さん、カヤノ妹さん)は、この家で生活を始めました。如己堂とは「己の如く隣人を愛せよ」という意味です。しかし、先生も医学部で被爆にあっており、子供達、戦災孤児の為に献身的な活動をしましたが、昭和26年5月1日、43歳で永眠されました。「白バラの花より香りたつごとく、この身はなれて昇りゆくらん」永井先生の辞世の句です。

浦上天主堂)
平和を祈るかの様に

小高い丘の上にある浦上天主堂からは、今もアンジェラスの鐘が聖母マリアに捧げられながら、永久の平和を祈るかの様に浦上地区に鳴り響いております。浦上地区では、明治元年(1868年)日本で最後の弾圧となった浦上四番崩れで信徒総数3,414名中、613名が殉教し、その後の原爆では約8,500名の信者が被爆死されました。この浦上天主堂は、こういう苦難の歴史がある天主堂なのです。これから先も、平和を語り継ぐためにも浦上天主堂の「長崎の平和の鐘」を鳴らし続けて欲しいと思います。

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