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その人こそ坂本龍馬である

日本の歴史は長崎から始まる
英・米・蘭・仏・露の国々から異文化が入り
日本全国から夢と希望を持った人々が集まって来た。
主義・主張は違ったが思う心は一つ
全て、私達のためであり、日本のためであった。
短い生涯であったが、「時の人」その人こそ坂本龍馬である。

所要時間・料金

2時間 9,320円 または、3時間 13,980円 2つからお選びいただけます。
また、下記のコース内容よりお客様のお好みにあわせて2時間コース(9,320円)をお作りいたします。

清風亭跡~土佐商会跡~大浦おけい宅~史跡料亭花月~お龍さん居地~上野彦馬墓所~龍馬銅像~亀山社中跡~亀山展示資料館~亀山焼古窯跡~龍馬通り(散策可能)~近藤長次郎墓所~海援隊本部~後藤象二郎宅跡~いろは丸事件談判事件~龍馬・海舟宿泊寺

コースをご利用のお客様

【東京都M様 坂本龍馬コース】
【群馬県T様 坂本龍馬コース】
【神奈川県N様 坂本龍馬コース】
史跡料亭 花月
全国的に珍しい史跡料亭 花月

花月は寛永19年(1642)に創立した遊女屋引田屋(ひけたや)の庭園内に文政元年(1818)の頃造られた茶屋の名称。大正末年、引田屋は廃業したが、花月の名称と引田屋の庭園、建物は現在に伝承され、昭和35年(1960)には長崎県の史跡に指定され、全国的に珍しい史跡料亭となった。

上野彦馬 日本初のプロカメラマン
報道カメラマンの草分け

風頭の坂本竜馬の銅像の下部に晧台寺の墓地が有り、そこに上野彦馬のお墓があります。彦馬はフランス人ロッシュに写真術の話を聞き、フランスから写真機とレンズを購入。文久2年(1862年)長崎市中島川畔に上野撮影局の看板をあげました。これが、日本初の写真館で坂本竜馬の写真も残っております。明治10年(1877年)西南戦争に従軍、我が国報道カメラマンの草分けとなりました。彦馬の父俊之丞が島津斉彬の写真を撮ったのが天保10年(1839年)6月1日でその6月1日が写真の日となったのです。

風頭公園 長崎を見渡す坂本龍馬像
風頭公園(坂本龍馬像)

園内には全国の有志からの募金によって建立された坂本龍馬之像や、地域の歴史を生かしたまちづくりに取り組む「亀山社中ば活かす会」の皆さんが、作家・司馬遼太郎の長崎における足跡の確認と文学顕彰を目的に建立した『竜馬がゆく』文学碑もあり、素晴らしい風景と共に龍馬の世界に触れることができる。

亀山社中跡
坂本龍馬が設立した貿易商社

亀山社中とは慶応元年(1865)、薩摩藩などの援助によって土佐の浪人・坂本龍馬が設立した貿易商社。長崎・伊良林の亀山という場所に同志と組織した日本初の商社のことだ。顔ぶれは長岡健吉、近藤長次郎、陸奥陽之助、沢村惣之丞など龍馬と共に幕末の激動期を生きた志士達。

亀山焼古窯跡
4人で始めた製陶所

文化元年(1804年)長崎村伊良林郷字垣根山の地に大神甚五平、万屋治吉、吉川要五郎等4人で始めた製陶所です。当社はオランダ船の注文に応じて水ガメや徳利を焼いておりましたがその後、格調高い呉須染付類で、木下逸雲、三浦悟門、日高鉄扇の崎陽三筆や豊後の田能村竹田等の絵付の製品が残っております。しかし、慶応元年(1865年)時勢の変転により閉窯しました。※この廃窯した屋敷を借用したのが坂本竜馬の「亀山社中」です。

鎮西大社 諏訪神社
「長崎くんち」の大舞台

長崎市民から“お諏訪さん”と親しまれる長崎鎮守の神社は、秋の神事「長崎くんち」の大舞台だ。弘治の頃(1555~57)、信濃の諏訪社から御霊分けされ、当初現在の寺町にある長照寺付近に祀ってあったといわれている(その名残としてこの辺りは現在も諏訪町という)。

後藤象二郎邸跡
後藤象二郎の姉婚

吉田東洋の私塾で学びその後長崎で開成館を設立し、貿易機関として土佐商会を設置した。長崎時代の住居がここである。

海援隊本部
海援隊となってからは

伊良林の亀山の住居とは別に事務所を持った。そこが小曽根英四郎の別宅であり、海援隊となってからはここが本部となった。近藤長次郎が「割腹して、諸君に謝し申さん」との言葉を残して自刃したのもここである。

土佐商会跡
新オコゼ組

富国強国を策した土佐藩主山内容堂は、後藤象二郎など旧吉田東洋門下生(新オコゼ組)を起用して、殖産興業に務めた。その最大のものが、開成館であり、この開成館の貸殖局長崎出張所が土佐商会で、主任が三菱を起こした岩崎弥太郎である。

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