日本最古の国立公園に湧く雲仙温泉

島原半島は日本で初の国立公園に指定された所です。青々と広がる橘湾を通りながら軍神として祀られている陸軍の橘中佐、海軍の広瀬中佐にまつわる歌を唄いながらドライブします。途中、愛野展望台で休憩後、小浜温泉を通り雲仙へ登ります。仁田峠や地獄巡りをした後、ホテルへ到着です。雲仙温泉で疲れをいやして下さい。そして私の事を思い出して下さい(笑)

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【雲仙・天草コース7時間】愛知県O様
【愛知県O様 雲仙コース】
【福井県F様 雲仙コース】
【千葉県O様 雲仙コース】

コース内容

愛野展望台
秩父宮殿下がおいでになった際に命名

愛野展望台の名は1925年(大正14年)秩父宮殿下がおいでになった際に命名されました。海抜95mの千々石断崖上に位置し雲仙・天草国立公園や雲仙火山群を望む絶好の場所です.頼山陽が詠んだ詩「泊・天草灘」はこの海上の事です。雲か山か呉か越か水天髣髴青一髪万里船を泊す天草灘煙はほうそうに横たわって陽漸く没す瞥見す大漁の波間に踊るを太白は船に当たりて月よりも明らかなり。

橘神社
千々石湾を見下ろす景勝の地

千々石湾を見下ろす景勝の地で祭神は橘中佐です。橘中佐は1865年(慶応元年)千々石町小倉名に生まれましたが、1904年(明治37年)日露戦争の首山堡の激戦で花と散り、軍神と崇められた人です。橘家は、南北朝時代の河内国の武将、楠正成の子孫にあたり菊水の下に大義を唱えた大楠公の精神を受け継いでいます。゛遼陽城頭夜は更けて有明月の影凄く霧立ち込むる荒涼の中なる残壕声絶えて目覚め勝ちなる敵兵の肝驚かす秋の風”

釜蓋城
千々石淡路守が築いた釜蓋城

橘公園の奥の小高い丘の上に小さな可愛い白亜のお城が有ります。1569年(永禄12年)千々石淡路守が築いた釜蓋城です。1582年(天正10年)1月28日、東インド巡察使バリ二ヤアーノの案内で天正遣欧使節としてローマに渡った4人の子供たちの中の一人13歳の千々石ミゲルはこの釜蓋城の城主千々石大和守直員の子供です。8年後に帰国した時はすでに秀吉の天下と成って居り信仰を捨て、大村喜前に「キリシタン宗門は極めて邪法也、表に後世菩提の理を説くといえども、実は国を奪う謀。」と進言し長崎へ亡命した後、行方不明となったそうです。

小浜温泉
国際観光地の先駆けと成りました。

明朝末期の1627年(寛永4年)中国漢方医頴川入徳(陳民徳)が小浜に来て、温泉の薬効を広めたのが小浜温泉の始まりです。海の小浜温泉,お山の雲仙温泉と呼ばれる様に小浜温泉は海の中から温泉が湧き出ているために塩風呂であり幅200メートル、南北1500メートルの狭長な範囲に源泉は78か所有り泉質は弱アルカリ性の含臭素食塩泉で泉質100%内外の高温泉です。明治時代より外人客が避暑の為に訪れる様に也雲仙温泉と共に我が国の国際観光地の先駆けと成りました。長崎でも有名人のトーマス・グラバーさんもゴルフ等で訪れたそうです。

雲仙地獄
雲仙地獄地帯

雲仙の古湯と新湯の間の白い土(温泉余土)におおわれた一帯が雲仙地獄地帯です。地獄とは仏教の教えで前世の悪業の苦報を受ける所という意味ですが、至る所から高温の温泉と噴気が激しく噴出し、強い硫黄臭が漂う中、湯けむりをもうもうと立たせるさまは、恐ろしげな地獄の景色そのものと言えるでしょう。

仁田峠
標高1080メイートル

1934年(昭和9年)3月16日、瀬戸内海、霧島と並び長崎の雲仙ガ我が国初の国立公園に指定されました。雲仙の仁田峠は標高1080メイートル有り,妙見岳(1334メートル)、と野岳(1147メートル)の鞍部の峠で島原半島で唯一の峠です。眼下には遠くわ熊本県の阿蘇山や天草それから、島原の乱の折、島原や天草に住むキリシタン達が密かに集まり秘密の打ち合わせをした湯島別名談合島,更にムツゴロウで有名な有明海が望めます。この仁田峠は、春はミヤマキリシマ、夏は新録、秋は紅葉、冬は霧氷と、一年中、大自然が皆様をお待ちしております。”高原にミヤマキリシマ美しく
群がり咲きて小鳥飛ぶなり〝昭和24年5月の昭和天皇陛下の歌です。

 

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